堀道広 旧仕事、日常、金継ぎ部、駄文、記録用。
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耳かき仕事人サミュエル 堀 道広
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祈りとしての漫画。, 2012/8/5
最初に断言するが、著者は天才ではない。
それは手塚治虫や、高野文子や、黒田硫黄の ような漫画の歴史に太く濃い年輪をつけるよ うな天才ではないということだ。 また唸らされるようなダイアローグがあるわけでもない。 もっと言ってしまえば、絵柄も整っている とは、お世辞にも言えない。 だがそれは「うまい」と「へた」という絵への 概念にはおよそ関係しない。 整った絵柄がうまい絵なのは否定しないが、 うまい絵は整った絵柄ではない。 話を戻そう。 この著者が描く漫画は、どこを切っても純度100%の漫画の鮮血がほとばしる漫画だ。 ストーリーテリングも絵柄もダイアローグも達人と言えるほどのものでもないにも関わらず この著者の描く女性が、雨雲の隙間から差す光のように私たちの視線を照らす瞬間に この著者にとって漫画が「祈り」として機能しているのではないかと錯覚させられる。 私は美しさとはなにかをまだ知らない。 また、なにが美しいかを判断する術も 知らない。 だが、この堀道広という作家が描く、 「女性」のふとした1コマの美しさは、 ただごとではない。 |
漫画を描いていても、誰かの命を救えるわけでもないし、何かの役に立ってる気がしないし、(ガロ、アックス系特に)反響もそんなないので池に石を投げているような印象があったのですが、こういうことを書いてもらえるから、「漫画を描いていて良かった」と思いました。
前作「うるし部」に関しては、「祈り」でした。
(自分自身がどうにも、ならなかったので。)
たしかに、人の表現というのは「祈り」みたいなものですね。
自分は、職人をやっていたので、自分を表現することを消し去ることを意識していました。
今も、その延長でやっています。
ですので、今でも自分を表現することは、ひどくかっこわるいことだと思っていますし、その資格もないし、能力もないし、意欲も低いのでそのスタート位置にも立てていないと思っています。
なので、周辺の人の善意でたまに「展示をしてほしい」と頼まれて展示をする機会が与えられる時があって、そういう時だけはなにか作りますが、そういう自己表現とかしたい側の人間じゃないと思っているので、なんか中途半端ですね。
しかし、人の「祈り」みたいなものは、漆を塗っていても、漫画を描いていても、塗り込められているように(そこは漫画も漆も共通で)思いますね。
では自分にとって漫画は自己表現か、という問いに関しては、そうかもしれませんね。でもあんまり出したくないので、今がイマイチなんでしょうね。
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